泣いていい場所

 

こんにちは
トリニティサロンのサンです。

久しく更新が止まっていましが、いかがお過ごしでしたか?
暑さ厳しく、燃え尽きそうな夏でしたね。
気候変動によって予想もつかない出来事に、日々翻弄されています。

最近、遠い親近者がなくなり
また一人の歴史が終わりました。

私は両親を亡くしてから、親の付き合いとなる方々のお葬式などに参列してきましたが、今は高齢化もあって家族葬が多くなり参列する機会も少なくなりました。

長年連れ添ったパートナー
子どもや親、兄弟姉妹など、
友人や恩師など付き合いが濃いければ濃いほど
人を亡くす悲しみは大きいです。

そんな大切な人がなくなっても時間は進み、止まりはしません。

自分以外の周りの環境は、いつもと変わらない平穏な一日が過ぎています。

私が『死』を身近に経験した親の時は、色んな手続きで忙しく、一人暮らしをしていた部屋から実家に戻ることにしたので、実家の整理など、やることが沢山ありました。
自分の感情が放置状態です。

凹み過ぎると周りに心配をかけるし・・・
やる事沢山あるし・・・
仕事はあるし・・・

感情よりも、目の前のタスクをこなすことで精一杯でした。
感情がなくなったのか?
何も感じなくなったのか?
感情を出すと止まらなくなりそうで怖いのか?

悲しみという感情をどう出せば良いのか分からなかった。

今思うのは、深すぎる悲しみは出し方が分からない。
経験したことない深さを経験すると、怖さに繋がるのかも・・・。

そんな私が、唯一、泣ける場所がありました。
それは車の中でした。
しかも運転中にです。
車での移動中にふと、感情が沸き起こるのですよ。(今では運転中は緊張している時間です)

当時の仕事は、花嫁のお支度をするヘアメイクとして活動をしていたので、素敵なお式を目の当たりにした日は特に、母のことを思い出す時間になっていました。

車の中の一人の時間が私には救いでした。

ある日
久しぶりに出会った方がパートナーを亡くされていたことを知りました。
『ここに来たら泣けるかと思って…』
と言って来られました。

『まだ、泣けていないんです』

人の亡くなり方には準備ができる時とできない時と色々あります。

私の身近な別れには時間がありました。
病という時間です。
いつかは・・・と思っていてもやはり本当にその日が来るとは思わない不思議な感覚。

準備があるだけに、その日までの時間の過ごし方には感情が揺れ動き、
その日が来てほしくない気持ちと
怖くて、来るなら早く来てほしい気持ちとが入り混じる・・・
悲しみの奥に、ものすごい怖さがあったように思います。

私は何が怖かったんだろうか?

私の存在自体も無くなっていくのか・・・?
なんかそんなぼんやりとした感覚を思い出します。

有名な精神科医であるE.キューブラー・ロスの『悲しみの5段階』という中で
悲しみの現れ方はそれぞれでも、常に5段階あるとされています。

否認怒り取引抑うつ受容

訪れた悲しみを素直に感じ取るだけで、人は精一杯なのに
悲しみは過ぎ去ったと思ったとたんにぶり返したりもしますよね。
私も数年くすぶってました・・・。

悲しみはいつ、どのように訪れるかは人によって違い、
悲しみというものが最も厄介なのはコントロールできない事でもあります。

この悲しみの5段階に加え、看取りの中では恐怖(不安)という要素も加わってくると思います。

なんでだろうか?
あれからはもう怖さはなくなりました。
不思議なんですけど・・・。
悲しみも、形が変わったようで寂しさに移行し、思い出が温かさを与えてくれます。

母が亡くなった後、ものすごい時間をかけて人の『生と死』について問いていました。
今もそれは続いています。


このコントロールできない感情と向き合える場所は見つけていますか?

泣ける場所はありますか?