母と私
こんにちは
トリニティサロンのサンです。
母の肺腺癌が見つかった当時、
同居をしていたのに、あの頃、母とはあまり話をしていませんでした。
仕事の事など、自分の事で精一杯で
母の気持ちも知らないで、自分のしたいことを突き進めようとして、当時は口を開ければ揉めていました。
早期発見だと聞いていた母は『大丈夫』と勝手に思ってもいたし、
今ほど医療の情報などなかった事もあって、症状については調べませんでした。
私の母は、親と子の境界線をくっきりと付ける人。
なので、母が何を思い何を考えてたのか知りません。
母方の祖母は、母が10歳の時胃がんを患って42歳で亡くなっています。
兄妹6人の真ん中で、後妻さんを迎え姉妹も1人増えました。
多感な年ごろに加え環境も変わり、そんな母の背景を考えると、私と母の関係も何か影響があったのかもしれません。
毒親でも無関心でもありませんでしたが、とにかく私と母はぶつかることが多く、自分でも長い反抗期を過ごしていたと思っています。
喧嘩の頻度も多くなったことで私は家を出て、フリーランスの道を選んだことで仕事の基盤を作るのに必死でした。
そんなある日の仕事中に、母から一緒に病院に行ってほしいと連絡を受けました。
その時は私と母と知人の3人で病院に向かい、主治医の話を聴くと言う流れだったのが、病院に行って一旦帰ることになり、今度は母抜きで私と兄と知人で再度、病院に向かい主治医と個室で話をしたのを覚えています。
この行動の裏には、母方の兄妹が関わていて、母に余命宣告を知らせないと言う事で、知人が一生懸命に段取りをした事の流れだったのですが・・・
主治医からの話に、肺腺癌の再発末期・残りの時間は長くて半年・治療を受けるかうけないか?
受けないなら最後はどこで迎えるのか?
などの話を聴いて、はじめて母の容態を知ることになったのです。
母の病状について、早期発見で手術治療の歳月からこの日まで、変わった様子もなく過ごしていたことが、一気に何かが崩れ落ちた感じです。
余命宣告をされても娘としては生きててほしい。
その為には治療を受けてほしかった・・・
だけど治療の話には進みませんでした。
当時はまだ本人に宣告をするのかしないのか?っていう時代。
宣告をしないとなれば大学病院での治療は出来ない。
治療をしないのであればホスピスへの転院となる、だけど、
母本人に宣告をしないのにホスピスへの転院は余命宣告をしてるのと同じ・・・。
結果、体力が持つまで家で過ごすことになりました。
娘として、治療を受けて欲しかった。
だけど、言えない自分がいた。
あんなに母とバトルを繰り返していたのに、母に大切な言葉を言えず主治医にも駆け寄ることもせず、ただただ目の前のことを受け止めていました。
後で知ったことですが、
親戚達は、私たち兄妹に心配させないよう、最後まで病状を話さないと決め、母本人にも宣告は耐えられないだろうと思い、伝えない選択をしたのだと聞きました。
残りの時間、母が居なくなることの怖さを毎日感じてた・・・
本当に怖かった。辛くて毎日涙で目が腫れていました。
母の身体を気遣うと気付かれる・・・
頻繁に会いに行くのも気付かれる・・・
普通に過ごすって難しい・・・
あまり話をしてこなかった母娘だけに、お互いなんだかぎこちない。
人が逝くとはどういう事なのだろうか?
人との別れの悲しみは経験がある。
その別れと逝く別れの違いはあるのだろうか?
本当の永遠の別れの覚悟が出来ていなかった。
当時の余命半年の予測が早まり、あの宣告日から1カ月という早さで逝ってしまった母。
母は何か言いたい事はなかったのだろうか?
母は本当に残りの時間を知らされたくなかったのだろうか?
母は弱い人だったのだろうか?
喧嘩ばかりして、憎むほどの気持ちに達した時もあったけれど、私は母を求めていたのだと思います。
素直に求めていたら違った最期を迎えていたのかも・・・
余命を知っていたら・・・
母の看取り方も違ったかもしれません。
これもタラレバばかり・・・
納得のいく逝き方なんてあるのかな?
母の最期の日
体力の限界がきて、大学病院に入院しました。
次の日、仕事があったのでその前に顔を出しに行ったら、その日の担当医師から今日か明日が山場ですと告げられた。
仕事に行くにも行けなくて、カラダも気持ちも動かない。
何とか仕事の調整が出来た時、突然やってきた。
肺を患って呼吸が辛いからと寝転ぶよりも座っている方が楽だといって、ベットの中でカラダを起こして過ごしていました。
その影響で背中や腰が痛いと言うので、マッサージをしてあげてたら、
『14時やねぇ』と言って、寝転ぶと苦しいと言ってたのに疲れたから寝るといって寝転んだのが最後となった。
14時とつぶやいたのは、家業となる蕎麦屋が14時で閉店となる時間。
兄の仕事が終わる時間・・・
母の見送り方はこれで良かったのだろうか?
フリーランスになったら、親の死に目に会えないよって言われたのを思い出す・・・
私は会えたんだ、会わせてもらえたんだと思った。
どんな最期がいいのか分からないけれど、
母の想い・母から経験させられることに、私は今後考えさえられることになる。
これはいい意味として、考えさせられること。
世代をつなぎ、よりよくなるための母からの最後の教育。
私はどうする・・・?