父と私
こんにちは
トリニティーサロンのサンです。
父と私は14年間の生活を共にし、そこからそれ以上の歳月が経ったある日、父が倒れたと連絡を受けました。
母が逝って3,4年経った頃です。
父が倒れたのは今回が2度目の脳卒中を起こし、今回は対応が遅れ、生死に罹る事態でした。
仕事に出かける朝、家で倒れてそのまま5時間の放置。一人暮らしのあるあるな話。
父が出勤しない事、電話をかけても出ない事、以前に脳卒中を起こし搬送されたことを父から聞いていた事で、警察・消防署などに問い合わせをしてくれていました。
が、動いてもらえず、3度目の問い合わせでようやく動いてくれた時には、5時間も経過していたと聞きました。
脳卒中は3時間が勝負なのよ・・・と看護師さん
父と面会したICUで、全て切られていた服を渡されて緊張が増したのを覚えています。
脳障害の回復はとっても時間がかかります。
父は目覚めるのだろうか?
落ち付いたころ、主治医から
『社会復帰は無理だと思います。』という言葉に、母とは違った不安が込み上げてました。
術後、父の部屋の片づけに行くと、ベランダから侵入して父を出した跡があり、窓ガラスがテープで張られていました。
床にもガラスがちらほらと残ってました。
その他は、綺麗に片付いた部屋を見て、私の知らない父がいました。
社会復帰は無理・・・
社会復帰が無理だと言うのは一体どんな生活になるのだろうか?
この生活のものは一体どこまで処分すればいいのだろうかと・・・。
父の住まい・持ち物・仕事場・契約しているすべてのもの、それぞれ整理しながら私は必死で動いていたように思う。
細かいことがあまり思い出せません。
現在でいう、家じまいに似てるのかもしれません。
病院へ行ってもいつも寝ています。
脳の回復にものすごい時間を要するなんて、当時は分からず、目覚めるのかどうかもわからなかった。
ICUからHCUに移動しても、一般病棟に移動しても寝ていました。
一般病棟までくると、回復していると言う事が分かる位カラダの向きが変わっています。
手をミトンのようなものをはめて、ベットサイドに両手を縛っています。
父だけなのかと思っていたら、周りの脳障害を負った人も同じ対応でした。
これは転倒防止の対策のようで、行動が予測不可能なのだそうですが、はじめてその光景を見ると、家族としては胸が痛む姿だと思います。
最初の頃は本当に、見舞っても何もすることがなく、脳が落ち着くまで待つしかありませんでした。
そんな時、ソーシャルワーカーさんを病院側から紹介され、今後の生活などの話し合いが始まりました。
我が家から200キロも離れた医療センターでは、当然ながら救急搬送で回復すると転院するか家に帰るかの選択になります。
当時の私はまだ独身であり、仕事もフリーランスではありましたが忙しくさせていただいてました。
そんな状態で家で介護・・・できるのか?
まだ福祉の状態もわからず、今ほどの数でもなかったころなので、本当に何もわからず知らない町の役所を何度も通った覚えがあります。
長いこと時間を要した脳の回復が落ち着いて、本当の意味で一般の病室で過ごすことになった父は、しっかりと目を見開いていますが、言語障害・片麻痺・知覚障害などが起きていました。
なので、父との意思疎通ができません。
言っている意味が分かるのかどうなのかもわかりにくく、私もどのように接したら良いのか当時は悩みました。
一つだけ通じたのがあります。
搬送されて、1,2カ月がたった当たり、車いすで院内を散歩していた時、自分の麻痺した右手が動かないのが不思議そうにしていたので、出来事を話しました。ゆっくりとできるだけ短く・・・
その時の父の落ち込んだ顔が忘れられません。
脳の症状が落ち着くと、カラダのリハビリが始まります。
数日間の安静で、筋肉も脂肪もないやせ細った父がいました。
半身不随のカラダに知覚障害、尿失禁も起こすことで紙パンツになっています。
当時の父は還暦を迎えた60歳前半。
元気が取り柄のようなちょっとばかり野生人のような父。
紙パンツの抵抗は当然あって、何度も看護師さんを困らせてたように思います。
色んなことが時間をかけて現実を理解しつつあったのか、私との問いかけにも首を振るだけですができるようになったのはうれしいことでした。
救急医療センターは回復する方向にとても意欲的です。
なので、看護師さんや理学療法士さんの声掛けには元気が出るようなかけ方をしてくれるので、私の弱る気持ちにも寄り添ってくれたのは忘れていません。
私は母の介護はしていません。
母の役割の穴埋めには一生懸命に動きましたが、母には直接寄り添っていない事の後悔や罪悪感などが残ってました。
なので、父に起こったこの出来事は、私が責任もって看ることを兄に伝え、別れた親子のやり直しをすることを決めました。
私の救いは、父は左脳を痛めたので、右脳の世界で生きてくれたこと。
とても穏やかな顔の父でした。
尿失禁した時のおとぼけた顔をして知らせたり、びっくりしたり、気持ちよかったりした顔の表情が子どものようで、怖かった父の面影はなくなってました。
父はがんではありませんが、今は超高齢化社会でいることで、誰もが介護を経験するのではなかろうかという社会です。
私の年齢50代にもなると、介護の話は当然出ます。
出口のない介護に美しい話はありませんが、時代が変わっても共感する話はたくさん聞きます。
介護をする人、介護をされる人、それぞれの目線。
私もこの先、介護が必要になるかもしれないカラダに対し、父の教育はこれなんだなって思います。
母からも父からも教わった学びを無駄にしたらあかんよね・・・。