乳がん遺伝子変異保有者となって思った事
こんにちは
トリニティサロンの三田です。
我が家の病歴
私の母は肺線癌、5年生存を迎える前に58歳で亡くなりました。
それが24年前です。
母の3回忌を迎えたあたりに、父が2度目の脳卒中を起こし、5時間後の発見の後、命拾いはしたものの高次脳機能障害となり、その後福祉の手を借りながらも68歳で亡くなった、私の両親の病歴。
自分もいつか・・・
癌か血管障害になるのではないかと思ったのは正直な話。
がん家族の患者さんの誰もが言う、『いつか私もなるかも…』
そんなことにならないような生活をしなきゃ!
って思って生活していた24年間。
でも、やはり自分も癌を患ってしまって・・・・
『なんで?』てのは思わなく
『私もかぁ~。
でも今じゃないねん!もう少し先で良かったのに・・・』でした。
だけど、なんで乳がんなんだろう?
右乳房の痛みで検査したクリニックで、疑われる反対の左乳房。
治療する病院で本格的な検査をして、結果両側乳房にそれぞれ原発巣が見つかって、癌のサブタイプも同じホルモン受容体が関係する乳がんだった事。
医師から告げられる遺伝性を考えてゲノム遺伝子検査の話をされて、検査をする方向になった。
淡々と進む、乳がんの治療計画と同時に家族の病歴の話。
乳がんや卵巣がんなど誰もいないし、乳がんは家族親戚内、私が初めての罹患者。
遺伝性とは・・・?
家族遺伝はあるとしても、乳がんは私だけだし・・・と遺伝性とは全く疑うことはなかった。
母方のほどんどが癌を患っていました。
それに、癌当事者の生存者もなく、情報収集は従兄か義理の伯母たちからしか聞けない。
母から聞いた幼い私の記憶では、胃・膵臓・心臓・肝臓か腎臓?そんなあたりを患う伯父・叔父たちがいた事。
遺伝ならその臓器からじゃないのか?
乳がんだけど、なんか関係しているのか?と人ごとのように思っていました。
私は40歳になる2カ月前に娘を出産し
まぁ高齢出産です。
娘の二十歳には私は60歳。(あと6年)
私は母との時間は30年間でした。
なので当時、娘を産んだ時に思ったのが
私は娘との時間を30年以上作ると決めた、これが私のミッション。
母の年齢・父の年齢も超えて、親を超えれる唯一の時間。
だから、乳がんになってしまったことに、命のリスクというものをすべて排除した治療を考えました。
乳房温存だと、細胞を残すことでいらぬ治療が出てくる可能性がある。
だとしたら、両側全摘をしてもらおうって。
そして、術後の病理検査とゲノム検査の結果を受け、まさかの生まれながらの遺伝子変異から罹患した乳がんだったこと。
そこから、ホルモン受容体が邪魔をするがん細胞なだけに、女性ホルモンが分泌される臓器(卵巣・卵管)の増殖や転移など、起こり得るリスクも排除しようと思いました。
私の決断はシンプルだった。
それに・・・
母の闘病中のメモ書きに、『悔しい・・・』と残された言葉。
自分が癌になったことへの気持ちだったのでしょう・・・
この言葉が私の脳裏にずっとあって、私の癌告知に再びその言葉が現れたのです。
当時、娘として何もしてあげれなかった母の気持ちが、ずっと自分を苦しめてたのです。
そうなるまい!
と母が居なくなってからの時間は反面教師として母と向き合っていた時間をたっぷり過ごして来たことで
私のテーマは
『元気な癌患者』として過ごすことなのです。
治療は生き方なんだなって思ったのですよ。
怖がらず、焦らず、気を抜かずにカラダを整える事を娘と共に過ごしていきたいと思ったのです。
いつか、娘にも検査を受ける時が来るかもしれない。
私の遺伝子変異を受け継ぐことなく、今後その遺伝子を持たせることなく次の代へと繋げれるなら、自分の治療に対するカラダの変化なんかは全く動じない。
娘の生き方に、少しでもプラスになるのならそうなるように向かっていくしかないと思ったのです。
最初は落ち込みから這い上がれるのか?ってまで落ち込みましたが、自分の事だけに、決めるのは自分!
母や父の事を経験してたことで、自分のことは悩む時間も短くて済んだのは、両親のお陰なんですねぇ。
いろんな学びが色んなところで転がっています。
最近、孫が見れるのではないか?と思う欲が出てきています。笑